サッカー日本代表の最初の国際試合は、1917(大正6)年に東京で開催された第3回極東選手権競技大会での試合とされている。ただし、日本代表といっても、この試合は東京高等師範学校の単独チームであった。そもそも、日本にはサッカーの全国的組織が存在していなかった。その誕生には、次のような物語があった。
1918(大正7)年、関西地区で「日本フットボール優勝大会」が、関東地区で「関東蹴球大会」が、東海地区で「東海蹴球大会」が開催された。しかし、これらは別々の大会であり、全国大会は存在していなかった。3つのサッカー大会のうち、東京で行われた「関東蹴球大会」に列席したイギリス大使チャールズ・エリオットは、その模様を母国イギリスへ伝えた。このことをイギリスの新聞が「日本でもサッカーの全国大会が開かれた」と誤って報道した。
この報道を受けて、イングランド・サッカー協会は、全国大会の優勝チームにシルバー・カップを寄贈することを決定した。シルバー・カップは、はるばる海を渡り、日本へと届けられた。なお、当時、日本とイギリスは日英同盟を結んでおり、日本にとってイギリスは非常に重要なパートナーであった。
渡し主のないシルバー・カップを手にすることになった日本。そのことを憂慮した東京高等師範学校の校友会蹴球部長だった内野台嶺は、東京高等師範学校の校長で日本体育協会の会長を兼務していた嘉納治五郎に相談する。嘉納から早急な組織の設立を命じられた内野は、1921(大正10)年に大日本蹴球協会(現:日本サッカー協会)を設立し、初代会長には今村次吉が就任した。こうして、日本にも、サッカーの全国的組織が誕生したのである。1929(昭和4)年には、FIFA総会でFIFAへの加盟が承認されている。
しかし、全国的組織が誕生しても、「日本代表=単独チーム」という構図が早急に変わることはなかった。第5回極東選手権競技大会から同大会に日本代表チームを派遣し続けたものの、常に単独チームが日本代表として試合をしていた。国際試合初勝利となった1927(昭和2)年に開催された第8回極東選手権競技大会の米領フィリピン(当時)戦も、WMW(ワセダ・マルーン&ホワイト)という早稲田大学サッカー部のOBチームであった。
ついに、1930(昭和5)年に東京で開催された第9回極東選手権競技大会において、東京帝国大学(現:東京大学)が主体であったものの、初めて選抜チームが日本代表となった。この大会では、中国と同位優勝し、国際大会の初タイトルを獲得した。
そして、1936(昭和11)年に開催されたベルリンオリンピックでは、「ベルリンの奇跡」と呼ばれる大番狂わせを演じることとなる。日本代表は、前年に関東大学リーグで全勝優勝した早稲田大学を主体とした関東選抜に、当時は日本領であった朝鮮半島の選手を加えたチームであった。監督は鈴木重義。早稲田大学のOBであり、英領ビルマ(現:ミャンマー)留学生のチョウ・ディンからショートパス戦法の教えを受けた1人であった。なお、チョウ・ディンは、日本サッカー殿堂に選出されるほどの人ながら、日本のサッカー関係者の間でも有名とは言えないだけでなく、帰国後の消息も不明である。
対戦相手はスウェーデン。堂々たる優勝候補であり、1934(昭和9)年のFIFAワールドカップ・イタリア大会ではベスト8、1938(昭和13)年のFIFAワールドカップ・フランス大会では4位という成績を残している。対する日本代表は、ベルリン入りしてから地元のクラブチームと練習試合をするものの、3試合とも敗北を喫し、日本代表の劣勢は誰の目にも明らかであった。当然のことながら、スウェーデンが優勢に試合を進め、前半は0−2で終了する。しかし、後半4分に川本泰三が得点、後半17分には右近徳太郎が同点ゴールをあげ、後半40分には松永行が逆転ゴールをあげた。スウェーデン人アナウンサーであるスヴェン・イェリングが「Japaner,Japaner,Japaner(日本人、日本人、また日本人)」とラジオ実況中に思わず絶叫したこの試合は、スウェーデン人にとっては歴史的試合の1つとなっている。
一方、1931(昭和6)年の満州事変、1937(昭和12)年の盧溝橋事件および上海事変によって、日本と中国が本格的な戦争状態となる。その後、1941(昭和16)年のマレー半島上陸、真珠湾攻撃、フィリピン上陸および香港占領によって、日本は対米英との全面戦争へと突き進む。この戦争により、スウェーデン戦で1点目を決めた川本泰三はシベリアに抑留され、2点目を決めた右近徳太郎はブーゲンビル島で戦死、3点目を決めた松永行はガダルカナル島で戦死する。1945(昭和20)年、日本の敗北によって戦争は終わる。同年11月13日には、会費が払えずにFIFAから資格停止処分にされた。
しかし、戦争中に消滅していた大日本蹴球協会が、1947(昭和22)年になって日本蹴球協会と名称変更して再発足する。1950(昭和25)年には、FIFAに再加盟。早くも、1951(昭和26)年にインドで開催された第1回アジア競技大会に参加し、3位(6チーム中)となっている。その後は、1954(昭和29)年、FIFAワールドカップスイス大会・アジア予選敗退。同年、第2回アジア競技大会・グループステージ全敗敗退。
1956(昭和31)年、メルボルンオリンピックでは、アジア予選は突破するも本大会は初戦敗退。1958(昭和33)年、第3回アジア競技大会・グループステージ全敗敗退(この大会での監督は川本泰三である)。1959年(昭和34)年、ローマオリンピック・アジア予選敗退。1960(昭和35)年と翌年に行われた、FIFAワールドカップチリ大会・アジア予選敗退。1962(昭和37)年、第4回アジア競技大会・グループステージ敗退。このように、FIFA再加盟から約10年間は、間違いなく世界の弱小国の1つであったと言える。
1964(昭和39)年、地元開催となった東京オリンピックでは、アルゼンチン・オリンピック代表に勝利しグループリーグを突破するも準々決勝でチェコスロバキア・オリンピック代表に敗れる。オリンピックでのベスト8という躍進を創りあげたのは、日本代表の監督代行として来日したドイツ人デットマール・クラマーの指導によるものであったことは有名である。強化に成功した日本代表は、1966(昭和41)年、第5回アジア競技大会で3位(11チーム中)。1967(昭和42)年、メキシコオリンピック・アジア予選を突破。翌年、メキシコオリンピック本大会で3位となり銅メダルを獲得した。
しかし、1969(昭和44)年、FIFAワールドカップメキシコ大会・アジア&オセアニア予選敗退。翌年の、第6回アジア競技大会で4位(10チーム中)と健闘するものの、1971(昭和46)年のミュンヘンオリンピック・アジア予選敗退。1973(昭和48)年、FIFAワールドカップ西ドイツ大会・アジア&オセアニア予選敗退。1974(昭和49)年、第7回アジア競技大会・グループステージ敗退。1975(昭和50)年、AFCアジアカップ・予選敗退。1976(昭和51)年、モントリオールオリンピック・アジア&オセアニア予選敗退。1977(昭和52)年、FIFAワールドカップアルゼンチン大会・アジア&オセアニア予選敗退。1978(昭和53)年、第8回アジア競技大会・グループステージ敗退。1980(昭和55)年、モスクワオリンピック・アジア予選敗退。同年、FIFAワールドカップスペイン大会・アジア&オセアニア予選敗退。
ここで、AFC加盟国との勝率を見てみる。1966(昭和41)年〜70(昭和45)年には78%を記録したものの、〜75(昭和50)年は48%に急落。〜80(昭和55)年は56%、〜85(昭和60)年は60%、〜90(平成2)年は52%だった。FIFAワールドカップやオリンピックの予選を突破する可能性は限りなく低い、アジアの二流国というのが当時の日本代表の姿だったと言える。実際、ロサンゼルスオリンピック、FIFAワールドカップメキシコ大会、ソウルオリンピック、FIFAワールドカップイタリア大会とアジアの壁を越えることはなかった。
ソウルオリンピックの次のバルセロナオリンピックからは、出場資格が23歳以下となったため、A代表がめざす世界大会はFIFAワールドカップとなった。1992(平成4)年シーズンから、日本代表監督にオランダ人のハンス・オフトが就任する。すると、同年に行われた、ダイナスティカップ(東アジアカップの前身)とアジアカップで見事に優勝する。
一気にアジアの壁を乗り越える勢いを見せた日本代表。1993(平成5)年の4〜5月に行われた、FIFAワールドカップアメリカ大会のアジア1次予選では、7勝1分0負の成績を残し、食い下がるアラブ首長国連邦(6勝1分1負)を上回り、グループFを通過。同年10月にカタールのドーハで行われるアジア最終予選へと駒を進めた。
6チームで争われた最終予選。2チームがワールドカップ本大会に出場できる。最終戦を残しての各国の成績は、第6位が勝点2で北朝鮮、第5位が勝点4でイラン、第4位が勝点4でイラク、第3位が勝点4で韓国、第2位が勝点5でサウジアラビア、第1位が勝点5で日本であった。なお、当時は、勝利の勝点は「2」であった。
最終戦、日本とサウジアラビアは、勝てば本大会出場、引き分ければ他会場の結果次第、負ければ予選敗退。韓国とイラクとイランは、勝てば他会場の結果次第、引き分けや負ならば予選敗退。北朝鮮は予選敗退が決定。この最終戦、日本はイラクと対戦。後半のアディショナルタイムまで2−1で勝っていたものの、ラストプレーでイラクに同点弾を叩きこまれ引き分け。他会場の結果によって、日本は3位となり、本大会出場を逃したのであった。この最終戦は、「ドーハの悲劇」と呼ばれ、日本サッカー界では長く記憶されることとなった。
しかし、この後も日本代表の力は衰えることなく、1991(平成3)年〜95(平成8)年のAFC加盟国との勝率は、なんと88%を叩きだした。そして、FIFAワールドカップフランス大会のアジア予選。1997年の3月と5月に行われた1次予選を危なげなく通過。同年9〜11月に行われた最終予選では、苦戦が続き監督解任があったもののグループBを2位の成績で終了。イランとのプレーオフに臨んだ。マレーシアのジョホールバルで行われた試合。日本代表は延長ゴールデンゴールによって、初めてのワールドカップ本大会出場を掴んだ。この試合は、「ジョホールバルの喚起」と呼ばれることになった。こうして、日本代表は世界の扉を開いたのである。 |